対談 あの世はあるのか?禅僧はどう答えるか!(1)

季刊『曹洞禅グラフ』2003年夏号(発行:仏教企画)に掲載された、洞源院住職と玄侑宗久さん(福島県三春町の臨済宗妙心寺派福聚寺の副住職であり、芥川賞作家)との対談を転載します。

対談・「曹洞禅グラフ」2003年夏号より芥川賞作家玄侑宗久さん(写真中央)は福島県三春町にある臨済宗妙心寺派福聚寺の副住職。福聚寺は大光禅師復庵宗己開山による700年近い歴史がある古刹である。境内にある文殊堂などを利用して地域の文化、教育活動を積極的に勧めている。小野崎秀通師(写真左)は曹洞宗の布教師として宮城県を中心に布教を続けておられる。東北地方で活躍されているお2人に、お盆にちなんで誰もが気になる「あの世」についてお話を伺ってみた。
司会 横内武彦(曹洞禅グラフ編集部)

司会

玄侑さんは禅寺の副住職であると同時に著名な作家でもいらっしゃいます。玄侑さんは小説を書くと言うことをご自身のなかでどう位置づけていらっしゃるのですか?

玄侑

そうですね。わたしにとって檀務というのは、人間としての深い体験ができる宝庫なんです。お檀家さんとのつき合いのなかで、僧侶としていろいろ感じさせられることが多い。でも、それが小説を書く際の下地になっているということではありません。わたしはあくまで僧侶であって、表現方法の一つとして小説を書くこともあるということです。わたしの場合、お檀家さんに布教するとき、自信のないことでも分かっているように話してしまうことがままあるわけですが、小説の中だと正直になれるということもあります。

ご先祖を迎える日本人の美しさと懐かしさ

司会

檀家さんとのつき合いのなかで学ぶことが多いということですが、檀信徒の方々にとって関心の高い先祖供養についてお伺いしたいと思います。先祖供養というと一般には国民的行事となっているお盆を思い浮かべます。盆休みには都会で働いている人たちも家族を連れていっせいに里帰りをして、お墓に行き、ご先祖の霊を自宅に迎えて供養をします。そうしたお盆の行事にはどういう意義があるのでしょうか。

玄侑

日本のお盆という行事は理屈では説明しにくいですね。もともとインドでは六道輪廻(ろくどうりんね)が信じられていましたから、死者は49日が過ぎたら、またこの世のどこかに生まれ変わるとされた。ですから、遺体は火葬にし、墓も必要ないし供養も必要ない。その代わり、動物を殺して食べたりすると、それはひょっとして先祖の生まれ変わりかもしれないということで、殺生を戒めた。それでも、殺してしまったかもしれない生き物たちの霊(三界万霊・さんがいばんれい)にお詫びをこめて供養をするというのがお盆だった。ところが中国では、先祖が前世で豚や犬だったり、来世で動物に生まれ変わるというような考え方は受け入れられない。それで、土葬にして、死者の霊は幽明界というか、暗く冷たい地獄のようなところに行くと考えた。それで、先祖と子孫は気によってつながっているから、位牌をつくり孝養の意味で供養をして、ときどきこの世にお帰りいただこうということになった。

日本では浄土宗の普及につれて死んだ人は極楽浄土に行くということになって火葬も広まった。そうすると、何の苦しみもない極楽にいるご先祖にこの世に帰っていただく理由はなくなるのですが、日本人はその辺を論理的に突き詰めないで、例えば玄関の前で迎え火をしたり送り火をするというような行為から得られる安心感とか、習俗としての美しさとか、懐かしさから伝承してきたわけです。

それは、通夜・葬儀とか年回法要でもそうだと思いますが、そうした儀礼を経ることによって、日本人は気持ちをクリアーに切り替えてきたのだと思います。仏教とくに日本仏教はキリスト教とかイスラム教のように、これは正しいこれは間違っているというようなことを主張しない。こういう考え方もあるし、こういう理解の仕方もあるというふうに八百万(やおよろず)的な解釈を柔軟に取り入れている。わたしは日本仏教のそうしたある意味で無節操なところが好きですね。

道元禅師は「寝ても覚めても三宝を唱え続けなさい」と示された。

司会

ご先祖をお迎えするということになると、当然、亡くなったご先祖は無になったわけではなく、どこかあの世にいらっしゃるということになりますね。小野崎さんは、檀信徒のかたがたからあの世について質問をされることがありますか?

小野崎

それはよく聞かれますよ。そのときは、あなたはどう思いますかと聞いて、相手が、「いやあ、あると思いますね」と言えば、「それでいいんじゃないですか」としか言えないですが…。

玄侑

玄侑宗久さん仏教というのはもともとそういうもので、お釈迦様も無記といって、あの世があるかないかというような質問には一切お答えにならなかった。そういう問題に対する人々の意識のレベルはいろいろですから、それに断定的な言葉を与えない帆王がいいということがあると思うんですよ。お釈迦様が何も語られなかったということは、死後の世界を否定されたということではないんですね。それぞれの人の意識が変容して行って初めて感じ取るものですから、お釈迦様は瞑想しなさいということをおっしゃった。ですから瞑想を大事にする禅宗ではとくに、分からないことは分からないという言い方をすべきだと思います。

小野崎

それについては、道元禅師は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「道心(どうしん)の巻」で、「寝ても覚めても三宝(さんぽう)を唱えなさい。死んで中有(ちゅうう)の状態になっても唱え続けなさい。ふたたび人間として母親の胎内に宿ったときもひたすら三宝を唱え続けなさい。このとき、何事を見聞きしても障りなく、爽やかな眼となり、悪趣の罪も転じて、仏前に生まれて仏を拝むことができる」と示されています。そこからすると、道元禅師は中有とか輪廻転生を前提としてお考えになっていたということになるかと思います。私自身は中有の世界は分かりかねますが、これは仏祖(道元禅師)が行われて来た道ですので、堅く信じ行じています。

司会

わたしにとっては、あの世はあってくれた方がありがたいですね。なにか目標が持てるんですよ。ある医者の話では、死の不安におびえている末期の患者さんを先祖のお墓に連れて行くと表情ががらっと変わるというんですね。死は断絶ではない、どこかでいのちは継続していると思うことによって救われるというケースもあると思います。

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