洞源院寺報なむ

第49号(令和7年1月1日発行)

迎春 開創九六四年 「山居を降りて五十年」

住職 小野﨑秀通

洞源院は、康平4年(1061年)前九年の役の戦いで、八幡太郎源義家公が守り本尊即ち義家公の兜神であった「聖観音金仏」と「八幡大菩薩像」を山居の陣中に祀り開山されました。以来真言宗、天台宗と変遷し、500年後の元亀元年(1570年)に曹洞宗に改め、現在に至っています。

その昔、洞源院は東北に誇る七堂伽藍を有し、禅道興隆の道場として子弟を養成する所であり、併せて伊達藩米を江戸へ運ぶ御穀船乗組員の海上安全のため「八大竜王神」を奉安して祈祷道場となした寺院でした。山居の霊場にあって、数百年にわたり本尊・聖観世音菩薩は各地より集まり修行する僧や信者の拠り所となっていました。洞源院の本尊・聖観世音菩薩は、全長105センチの立像で仏体全てが金色仕上げで、鎌倉以降に京仏師によって長年手を尽くして制作されたと伝えられています。このことは郷土史家の紫桃正隆氏も「類例を見ない見事さで、長い年月ながら完全な姿態で保護されて来たのは奇跡である」と賞賛しています。

ところが、明治4年、廃仏毀釈の最中、七堂伽藍が悉く焼尽し、大切な什物のほとんどが損失しました。幸いにも本尊・聖観世音菩薩・八幡大菩薩・八大竜王神等のご尊像は無事に救出することが出来ました。

爾来、100年余り、七代にわたって仮本堂の状態が続きましたが、先代秀丸和尚が世相を読み、苦心惨憺の末、霊場山居を離れ、現在の仁田山に遷座再興することを決断したのでした。

古刹の山居は車道がなく、徒歩で一番近い小竹浜から30十分、渡波からは1時間の道のりで、山道を歩くのが難儀であったとお檀家様からも想い出話しとして語られています。

お陰様で遷座後、檀信徒、篤信者皆様のご理解とご協力を頂いて、早50十年となりました。

御本尊・聖観世音菩薩様も衆生済度の行願を強くし、皆様の身近にあって見守りたいと古刹の霊場を離れ、下山して来ました。

この50年間、身近に葬祭・供養を伸べ、恒季法要の参集を始めとし、洞源院少年研修館を開設して青少年の健全育成に関わり、本堂で寺子屋寄席を開催し心和む笑いの場となり、芸能の場、音楽コンサート等あらゆる行事が催されてきました。常に檀信徒のみならず、多くの人々にご来光頂いていた中で、東日本大震災時には400名を越す被災者の皆さんと共に生活し助け合って乗り越えられたのも山居を降りた御本尊様のお陰であったと鴻恩を深く感じます。

観世音妙智力は「七難即滅七福即生」禍転じて福とします。

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大般若祈祷会のご案内

守り本尊御開帳 八大竜王神御開帳

1月18日(土) 
・設斉(食事接待) 再開します 10時半~
・ほうねん座座長演舞 11時半~
・祈祷法要 12時半
家内安全・病魔退散・闘病平癒
身体壮健・子孫長久・家業成就
家門繁栄・除厄招福・商売繁盛
工事安全・交通安全・海上安全
合格祈願・学業成就・良縁結成
無事息災・海産豊穣・家庭円満
安産祈願・福寿長寿・心願成就

ご希望の願意を選び、桃色の申込書に記入し、受付にご提出ください。
お檀家以外の方でも受付けていますので、ご遠慮なくお申込み頂き、お誘いの上お参り下さい。

※受付は、当日に限らず事前に受付いたしますのでお申し込みください。

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墓終いを希望される方へ

家を継ぐ人が居なかったり、遠方に別居していたり、お子さんが居ない、独身で身寄りが無いなどで墓終いを考えている方は早めにご相談下さい。

今、様々なところで、「散骨」や「樹木葬」が話題になり、葬儀屋さんや石屋さんが勧めているとも聞きます。そんな中に「直葬」「火葬式」と称して、いずれの宗教も関わらない送り方がされています。

尊厳死を重んじる人間として関わった人々との別れを大切に、そしてどんな別れであっても無縁遺骨とならないようにしたいものです。

洞源院では、墓終いや身寄りの無い方等の為に、安らぎ十一面観音様の見守りの下に永代供養納骨所が用意されています。

仏に見守られて旅立てるよう仏縁をしっかり持って生きて頂きたいので、永代供養等のご相談をお待ちしています。

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暮らしの中の仏教語「三朝」

村崎シキブー

正月一日の朝は、一日の始めであり、月の始めであり、一年の始まりで、始まりが三つ重なるということから年一回の目出たい朝を「三朝」といいます。

この三朝に間に合うように年末に暦を取り替え、新年を迎えます。暦は、この年の月と日について書かれてあり、月はお月さまを、日は太陽をさしています。

私たちは、この太陽と月の動きを基にして生活を営んできました。

この太陽を表しているのが、「大日如来」です。大日は、大いなる太陽を指すように、宇宙そのものを表している最高位の仏様です。自然も生き物も全ての仏様も大日如来から生まれたとされ、私たちを守ってくださっています。

月は仏様のお悟りに例えられます。月の影は済んだ水さえあれば、水たまりでも田んぼでも池でも、しっかりと映ります。でも濁っていては映りません。

私たちも心の水を清らかにして、太陽と月の恵みを全身で受けて、有意義な一年を送りたいものです。

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「七」

安田 大也

新年おめでとうございます。

令和七年に因み「七」について探ってみました。

先ずは「七福神」福徳の神として信仰される大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七人の神様ということはご案内のとおりですが大黒天や毘沙門天、唯一の女神弁財天はインド出身。福禄寿と寿老人、布袋は中国出身。そして、イザナギノミコトとイザナミノミコトの子供の蛭子(ひるこ)は3歳になっても自分で立つこともできなかった為、船に乗せられ、海に流されてしまいましたが、その後漁民に大漁をもたらす恵比寿として戻ってきたという唯一、日本生まれの神様です。

次は「七堂伽藍(しちどうがらん)」です。

1061年に八幡太郎義家公により、山居の地に建立された洞源院には、県下随一の七堂伽藍を有する禅道興隆の道場だったそうです。残念ながら明治四年に火災により全焼してしまいましたが、この七堂は山門・仏殿・法堂・庫裡・僧堂・浴室・東司(便所)の七つの建物をいいます。

さて、私は大の手打ち蕎麦好きで、薬味は七味唐辛子派。この蕎麦に「七味」を入れるのにも意味があるそうです。

江戸っ子は、口にする物も何かしらの口実、縁起を含めていたようで、蕎麦は精進を代表する食べ物で心と身体をきれいにして、人間が生まれ持った「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・いやみ・ひがみ・やっかみ」の七味を食べて、断ち切ることができるのが蕎麦切りだと信じられていたそうです。

最後は「七転び八起き」何度転んでも、新たな一歩を踏み出すという言葉ですが、七回転んだら七回起きれば元に戻るじゃないか?なんで八回起きられるんだと思ったことないですか?人間は生まれた時にはまだ立っていません。そのため、先ず立つところから始めると考えると起き上がりは、プラス一回で「七転び八起き」となります。

数の七には「多い」という意味があり、八は末広がりで「幸福」に繋がり、ここから「七転び八起き」という言葉ができたという説もあります。

人生、浮き沈みもあるでしょうし、失敗もあるでしょうが、めげずに起き上がり、最後は幸せをつかみ取りましょう。

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地中海マグロ漁監視を終えて

米谷 ゆきひろ

スエズ運河北側(地中海側)に20隻の南航船が集結した。

水先人の指示により航走開始水先人は、日没まで2~3回、操舵室の横で聖地メッカに向かって礼拝を繰り返していた。運河の出口西側には、油田のガス抜きの赤い炎が印象的でした。 運河を抜けると、一路赤道直下のセーシェル諸島に向かう。 紅海からイエメン南のアデン湾に入りソマリアに向かって航行中に、行合のマグロ船から「パトロールご苦労様、今アラビア海は大しけですから注意して下さい」と無線電話が入り、情報の提供へのお礼と、互いの安全航海を述べた。

情報通り、ソマリアの先を過ぎるや否や波浪7~8mと高く海上は帯状の泡で真っ白。気象図を見ると、アフリカ東部沖は厚い雲で覆われ、北はアラビア海へ伸び、サイクロンが発生していることが予想された。

予定より3日遅れで首都ビクトリアに入港した。

セーシェル諸島は、インド洋に浮かぶ地上の楽園と言われ、エメラルドグリーンの海、白砂のビーチ、高級リゾートホテルが600軒以上で年中世界中からの観光客で賑わっています。

水産庁監督官の交代引継ぎ、補給作業等を終え、翌日、西オーストラリア・フリマントル港に向け出港。この航海は温暖海域で気象海象に神経を使わなくとも安全航海が期待できた。

フリマントル港は、戦前から南氷洋捕鯨の寄港地として利用されてきた。またインド洋のマグロ漁か南マグロ漁の寄港地なのか、マグロ船の出入港をよく見かける。

地中海マグロ漁監視を終えてから、水産庁鰹鮪班所属になりここフリマントル港が最終寄港地となり、精神的にかなり楽になった。

無事に内地入港を果たし、何よりも全乗組員を元気な姿でご家族の下に届けられ肩の荷が降りた。

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旧跡洞源院石碑に見る郷土史

十二月八日釈尊成道会の日に渡波で金物店を営む郷土史家鈴木紀男氏に郷土史の講話を頂きました。

講話時間は一時間と短い時間でしたので、渡波郷土史について数回に分け語って頂きます。続きは二月十五日午後一時半より釈尊涅槃会の折に再開することになりました。

《講話》

先ず、洞源院は石巻管内百六ヶ寺ある中で、梅渓寺、長谷寺等五本の指に入る歴史ある古刹です。古代、中世、近世、近代と続く中、洞源院は古代後期の康平4年(1061年)から続く寺院で、当初は真言、天台宗で、元亀元年(1570年)に曹洞宗に改宗されています。

真言、天台宗の時代は国家仏教で、寺院の活動も国家の下で庇護されていましたが、やがて奥羽州藤原から葛西400年統治に移り、その後半に一族の内紛が起こり衰退して行きます。すると、庇護を失った寺院は正常な活動が出来ず、困窮したと考えられます。

丁度その頃、鎌倉時代の新仏教が次々と起こり、奥州の天台宗寺院の後に、禅宗が地域の武士層の庇護を受けて教線拡大して行きました。

洞源院も葛西時代に隆盛し、七堂伽藍が整って行ったものと推察されます。

明治四年、廃仏毀釈の最中に「七つの堂宇が焼失した」と祝田浜の肝入が当時の県庁に届け出ていた記録で明らかです。

七堂伽藍には山門があり、黒門と呼ばれていた横に天文7年(1538年)に建てられた3メートル余りの供養板碑があります。

ここで興味深いことは、「陸奥洲牡鹿郡大和田郷楊澤山」と板碑の所在が刻まれています。 楊澤山は洞源院の旧山号名ですが、当時旧跡山居洞源院或いは小竹浜まで大和田郷であったと思われます。

葛西時代、古井内湾大和田に砦館が有り、さらに、平形山等の数カ所に砦が有り、古井内湾や万石浦等が一望できました。根岸側は大和田の端であるところから、和田の端(渡波)と呼ばれていた可能性が大です。

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第三十二回寺子屋寄席

ちえぶくろの会

「のどおつる 手慣れし人の 秋刀魚汁」

講談協会々長・宝井琴調先生が、帰りの仙石線の車中で詠んだ句です。

実に25年ぶりに講談を聴く会を開催しようという意見が出て、協会に相談したところ、会長自らお越し頂くことになりました。

正直なところ、落語が定着した感がある寺子屋寄席、客入りが心配されましたが、意に反しての大入りでした。

演題は「荻生徂徠(おぎゅうそらい)・徂徠豆腐」「大岡政談・人情さじ加減」「赤穂義士赤垣源蔵・徳利の別れ」と時間を延長しての三題でした。

堅苦しいイメージがある講談ですが、さすが芸術選奨大衆芸能部門で令和5年度の文部科学大臣賞に輝いた琴調先生、笑いあり、涙ありの講談でした。

東京から駆け付けた先生の大ファンの人達は「今日の先生の話は、東京にいても3日間続けて寄席に行かなければ聴けない話で、石巻の人達は幸運でしたよ」と羨ましがっていました。

恒例の抽選会の後、能登豪雨災害支援の為のオークションを開催したところ、お客様方の多大なご協力により、募金と合わせて127,769円になり、社会福祉協議会を通じ、現地に送りました。

冒頭の句は、寺子屋寄席終了後に、ちえぶくろの会々員との茶話会で食べた秋刀魚汁の美味しさを賞賛した句です。

そして、先生が全国津々浦々を周り、その都度、発信しているブログには「あの時、400人以上の人が逃げ込み、震える肩を寄せあったお寺、高座から見た笑顔の方々が殆ど間違いなく、あの日誰かを亡くした人達…」

翌日、先生は朝早くに日和山に登り、犠牲になられた方々に想いを馳せておりました。

32年続いている「寺子屋寄席」会員の減少と高齢化に悩みは尽きませんが、次回の寄席の企画を一緒に話し合い、賛同して下さる方の加入をお待ちしております。

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活動報告(8月~12月)

  • 山門施餓鬼会 8月8日
  • お盆供養 8月13日~15日
  • 保育園児お泊まり会 8月23日~24日
  • 観月会園児参加 9月13日
  • 永代供養・愛愛動物供養  9月22日
  • 写経会 9月1日、10月6日、11月3日、12月1日
  • 寺子屋寄席 10月19日
  • 園児山居探訪 10月24日
  • 東北大学留学生日本文化講座 11月9日 
  • 園児境内落ち葉拾い・焼き芋会 11月20日
  • 年末清掃奉仕 成道会・講演会 12月8日
  • 護持会役員会 12月21日
  • 大晦日除夜の鐘・お焚き上げ 12月31日

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行事予定(1月~4月)

  • 三元祈祷 1月1日(水)~3日(金)
  • 大般若祈祷 1月18日(土)10時半~
  • 涅槃会 2月15日(土)13時半~
  • 東日本震災慰霊供養 3月11日(火)14時~
  • 春彼岸供養 3月17日(月)~20日
  • 花まつり 4月20日(日)13時半~

※台湾震災募金15万円送金

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