洞源院寺報なむ

第44号(令和5年5月1日発行)

卒塔婆(そとうば)

住職 小野﨑秀通

ご先祖様の年回忌が近づくと「塔婆供養をお願いします」と年忌供養を申し込まれます。ご法事や追善供養等にも塔婆を立てて供養します。その塔婆とは一体どのようなものなのでしょうか。

塔婆は卒塔婆が略された言い方です。インドサンスクリット語のStupaに漢字音を当てて卒塔婆と書き、塔婆とか塔と略語で呼んでいるのです。卒塔婆は仏舎利塔という意味です。

仏舎利はお釈迦様の御遺骨です。

お釈迦様はインドのあらゆる所を説法して歩かれました。その説法の旅を遊行といいます。八十歳にしてなお遊行し、クシナガラという所で食事の後に腹痛を起こし、沙羅双樹の林に北枕で休まれ数日の間回復を待ちます。この間、お弟子や信者がお釈迦様の病を聞き、遠方からも集まってきます。お釈迦様は病の身でありながら、いつものようにお弟子や信者のために説法します。

その最後に「戒を基に清らかに正しく生きることですよ。私が入滅したなら、私を荼毘し塔を建てて祀って下さい。そして、私を思い、私が説法したことを思い起こして下さい。そこには何時も私がいますよ。」とお釈迦様は信者の人々に話され、入滅涅槃されたことが『涅槃経』に記されています。荼毘後、インドの八つの王国に分けられて、卒塔婆=仏舎利塔を建て、お釈迦様を敬礼(けいらい)する人々のお参りが絶えませんでした。 それから三百年後の紀元前三世紀にアショカ王がインドを統一すると、八カ所の仏舎利が集められ、仏舎利を細分化して、広く多くの国に分けて卒塔婆を建て、多くの人々がお参り出来るようにしました。そして、スリランカ(セイロン)、ミャンマー(ビルマ)、タイ、インドネシア、中国等に広く伝えられ、卒塔婆が建てられ、お釈迦様がそこに居ますが如く仏教を信奉する人々が集うようになり、こうして卒塔婆を建てる事が仏教信奉者の最も大きな善行となったのです。

日本では、鑑真和上が奈良時代戒律を伝えるために渡来したときに、仏舎利を携え、法隆寺に五重塔を建てて祀ったのが卒塔婆の始まりとなります。

卒塔婆に功徳を積むことは、お釈迦様に功徳を積むことであり、その果報として天に生まれ変わる事が出来るとされてきました。

しかし、誰もが五重塔のような卒塔婆を建てられる訳ではありません。そこで板塔婆が作られ、誰でも功徳を積むことが出来るようになったのです。

誰でも建てられる板塔婆といえども卒塔婆ですのでお釈迦様の塔です。そこに大事な方の戒名が記されることは、お釈迦様と一体になった供養塔だと言えます。

『如来神力品』には「塔を立てて供養する処は仏の道場なり」と説かれています。

塔の功徳をいただいて念ずる精霊を資助し、追善の誠を捧げたいものです。

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護持会主催 日帰り研修旅行

六月二十七日(火)
洞源院出発 八時半
三陸道・岩手へ
釜石大観音 参拝
宝来館(食事)
うのすまい・トモス 観光
道の駅高田松原
洞源院着 十七時半

※ご参加をお待ちしております。
六月十日迄、お寺に申し込み下さい。(電話24‐1389)
参加費 五千円(バス・昼食代)

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暮らしの中の仏教語 「四天王(してんのう)」

村崎四季折々

一つの組織、部門の家臣や弟子のなかで能力や才芸が最も優れている四人を称して四天王といわれていますが、仏教の四人の守護神、四方を守る王=四天王がその語源です。

仏教の世界観として登場してくる巨山である須弥山(しゅみせん)の頂上には「帝釈天」がおられ、その山の中腹の四方にいる守護神は
【東方】持国天(じこく)
【南方】増長天(ぞうちょう)
【西方】広目天(こうもく)
【北方】多聞天(たもん)
の総称が「四天王」で、仏教を帰依する者を守っているそうです。私たちを四方から守ってくれている四天王は頼もしい限りです。

持国天は、東方を守護し仏法を守り、増長天は、鬼神を領して南方を守り、広目天は、衆生を観察し西方を守護、多聞天は別名を「毘沙門天」といい、北方を守護しています。

北方は上位で、大切なものを背後から守るという役目をしているといわれています。上杉謙信は、都の北を守るとして、毘沙門天の「毘」を旗印にして戦っていたということです。

今年の大河ドラマ『どうする家康』が始まっています。家康の天下取りを支えた四人の家臣「酒井忠次」「本多忠勝」「榊原康正」「井伊直政」を「徳川四天王」と呼んでいます。

今川、織田、武田に挟まれ、三河の田舎から天下を取っていく家康ですが、この四天王の知略、戦略が家康を四方から守り四百年の徳川幕府の礎を築き上げていきました。評価はいろいろありますが、まがりなりにも「泰平な時代」に繋げていったことは間違いありません。

他にも、四天王と呼ばれる四人がいますが、今年は「どうしよう?」と悩む家康を四天王がどう支えて行ったか「徳川四天王」の視点から注目して見るのも面白いかもしれませんね。

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ご機嫌ようそしてお元気に

安田 大也

ペンネームを聞かれます。
「アンダダイヤ」と申します。

標準語では「あんた誰?」という意味になるでしょうか。

素性は聞かないで下さい。

小さい頃から好奇心旺盛で、一日一回は笑って「自分は間違いなく人間だな」ということを自覚することにしています。

なぜなら、笑う能力は「人間だけ」にしか無いからです。

さて、今回のテーマに掲げた「ご機嫌よう」は、一般的ではないですが「ご機嫌良くお過ごしですか?」と相手の体調や気分を伺い、相手を気遣う丁寧な挨拶表現で、朝・昼・晩を問わないのも特徴だそうです。

卒業生には懐かしいと思いますが、現在でも学習院大学の女子は、授業開始と終了、登下校の挨拶に使っているそうです。

一般的ではないと言われても我々にもご機嫌に暮らす権利もありますし、ご機嫌に暮らしたいものですよね。

そこで、私、大也がその極意をお教えいたしましょう。

人間には「鬼」が潜んでいるそうです。
一つには「言鬼」と言う、汚い言葉遣いをする鬼。
二つには「眼鬼」と言う、目つきが険しい鬼。
三つには「心鬼」と言う、イライラしている鬼。
四つには「動鬼」と言う、突っかかってくる鬼。
五つには「金鬼」と言う、カネの亡者になる鬼。
という「五つの鬼」です。

私たちが内に秘めているこの鬼たちを、外に出さないように日々を過ごしていれば、自分自身が穏やかになり、家族はもとより、周りの人たちも和やかになり、みんなが「ご機嫌」になる「三方良し」となるのです。 お分かりになりましたか?

そうです。自分の中に潜んでいる「五つの鬼」を出さないようにして生活するのです。
「五つの鬼を減らす」即ち「五鬼減(ごきげん)」になります。

こうして日々をご機嫌に過ごしていると、自ずと鬼が減っていき「減鬼(げんき)」になり、元気に過ごせるようになる!というわけです。

信じるも疑うも、あなた次第だまされたと思って、ご自身の内に潜んでいる鬼を一つ、もう一つと減らしてみてください。

それでは「ごきげんよう!」

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【寄稿】「私の震災後十二年」

渡辺 澄夫さん

私は秋田県にかほ市で農業を営んでおります。芭蕉翁の「奥の細道」の最終目的地である象潟のある所です。五十代より地元の坐禅堂へ参禅し、平成二十八年に出家得度し、僧侶として過ごしております。

震災の年に秋田県で長年、中学校の臨時講師をしていた娘が運よく宮城県の教員として採用され、まさに赴任するときに東日本大震災が起こったのです。

運送関係もまだ正常に戻らず、農業用の軽トラックに枠を作り引越し荷物とガソリン、トイレの水を持参の上での道中でした。塩釜市内は、まだ整理のつかない瓦礫の山、遺体安置所の体育館等まさに震災の悲惨さを感じました。

収穫作業の終わった秋に行った際に、洞源院様とのご縁をいただきました。奉仕作業の昼食時、お寺での避難生活などをいろいろと聞いている折、あるご婦人が「津波が引いていく時、電柱に掴まって、助けようとして伸ばした手が数センチ届かず、うちの人が沖に流された」と話していました。言葉も出ず黙って聞いていました。

ある年、方丈様の勧めで雄勝方面に浜供養に参加させていただきました。参列者の海に向かって祈る姿、その祈りは海の向こうの物故者に、きっと届いており、祈る本人に「木霊(こだま)」のように返っていると思われました。

このようにして、娘のところに来たとき、朝課作務等に参加し、ご指導いただきました。

ところが、この二~三年、コロナ禍で訪れることができず、震災の日、仙台の荒浜で家内と娘で祈りを捧げていました。

スケーターの羽生結弦さんが遺体安置所のあったスケート場の氷面に膝まずいて手を触れていました。
それぞれの「祈りの姿」が尊いと思います。

そして、今回の十三回忌の法要、御住職夫妻をはじめ皆々様とご一緒に随喜の上、御供養をさせて頂き感謝に耐えません。

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【寄稿】「震災から十二年を迎えて」

鈴木 康夫さん

あの震災から十二年を迎えますが、今思えばあっという間に過ぎたなぁと思います。

人間の人生から見たら、十二年はかなり長い時間で、自分の場合は、人生の四分の一程の期間になります。

震災当時、私は仙台で暮らしており、直接的な被害はありませんでしたが、牡鹿の実家は津波の被害に遭い、両親と祖母と弟の四人の家族を同時に亡くして現実を受け入れることができませんでした。

震災後数日経って祖母の遺体が見つかり、自分の目で確認できましたが、母親は身元が分からず、約一年後にDNA鑑定の結果から遺骨の状態で戻ってきました。

十二年経ちますが、未だ父と弟は行方不明のままです。

震災の話題は、正直辛いのでうちのことを知らない人の前では、実家のことは言いませんし話も濁しております。

震災後、買い物中に言い合いをしている親子を見た時に何故か羨ましい気持ちになりましたが、十二年経った今でも同じ様な光景を見てもそう思います。

他愛ないことですが、親を亡くして感じるようになりました。子供の愚痴を言っている親を見た時も同じ様に感じます。

二十代の頃はよく実家に帰省していましたが、三十歳を過ぎると両親も結婚を急かすようになり、なるべく親を遠ざけてしまっていたことを、今になって後悔しています。

何とか御縁があり、五年前ようやく結婚しましたが、お墓の前での報告は悔しさが強かったです。のんびり生きてきた自分がいけないのですが、後悔先に立たずです。与えられた時間の中で、人生悔いのない様に日常、当たり前になって気づかない出来事にも感謝しながら過ごしたいものです。

十二年経って、少しずつですが、悲しみが癒えてきたかなと思えます。

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活動報告(1月~4月)

  • 三朝祈祷 元旦~3日
  • 大般若祈祷会 1月18日
  • お涅槃会 2月12日
  • 東日本大震災13回年忌法要 東日本大震災合同慰霊供養 3月11日
  • 春彼岸供養 3月18日~21日
  • 永代供養・愛々動物供養 3月21日
  • 花まつり 4月23日

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行事予定(5月~8月)

  • 園児花まつり 5月16日(火)10時~
  • 護持会役員会総会 5月21日(日)14時~
  • 第13教区寺院総会 5月29日(月)14時~
  • 東北大留学生研修 6月17日(土)11時~
  • 護持会日帰り研修旅行 6月27日(火)8時半~
  • 清掃奉仕 7月30日(日)8時半~
  • お施餓鬼会 8月8日(火) 11時~
  • お盆供養 8月13日(日) ~ 15日(火)

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中国四祖寺記念法要参列

湖北省黄梅県は禅宗創生期の中心地です。現代に再興発展させた功労者が四祖寺の浄慧法師という方です。二〇一三年に拝登させて頂いた折、歓迎頂き、墨跡も賜りましたが、その翌月、突如ご逝去されてしまいました。葬儀には仏教関係者初め信者の方々で境内が埋め尽くされ、参列者は一万人を超えたと聞きました。

中国では、日本の明治維新と同様、文化大革命により廃仏毀釈となりましたが、日本同様に活動が許され、浄慧法師等の求道者により仏教・寺院再興がされました。

この度、浄慧法師の十周年法要と「法師の顕彰と今後の禅文化活動の発展を願うシンポジウム」に招待され四月十七日より一週間訪中して来ました。(住職記)

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トルコ・シリア地震支援募金

三・一一震災物故者十三回忌並びに合同慰霊供養の参列者等から頂いた募金を四月十一日に石巻市役所社会福祉総務課へ出向き、募金額十五万八千三百五十五円を手渡しました。

市から、日本赤十字社宮城県支部を通して被災地へ届けられるそうです。

ご支援を頂いた皆様に心から御礼申し上げます。

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季節の移り変わり

米谷ゆきひろ

庭の片隅みで、極寒に耐えて元気に咲いていた僅か三~四センチの節分草。厳しい環境の最中咲き誇った可憐なその花を観賞した翌日、二月四日の「立春」を迎えて春が始まりました。

この季節の変わり目の前日が「節分」で豆をまいたり、ある地方では、頭をつけたイワシを焼き、玄関の外に飾り厄を払って「立春」を迎えます。

また、三月三日のひな祭りには、時節に合わせるかのように「ひな祭り」という名が付けられた節分草に似た花が咲き誇ります。土中の根も虫も活動し始め、肌寒さの中にも春の兆しが感じられるのです。

年賀状に「新春」、「初春」と書くのも、昔は「立春」が旧暦の元旦だった名残で「春」という文字を用いられました。

「言葉文化」は飛鳥時代(五九三~七一〇年)から続きます。馴染み深い言葉としてウグイスは「春告げ鳥」、梅は「春告げ草」白梅が最初に花をつけ、次に紅梅や緋梅が開花し、ほのかな香りを運んできます。

万葉集では、桜を詠んだ歌は四十三首で、梅を詠んだ歌は百十首あります。

立春から数えて八十八日目の「八十八夜」(五月二日頃)は、今も茶摘みの始まりとされています。五月六日は、「立夏」です。

皆様には季節の変化に順応し、夏に向かって元気にお過ごし下さい。

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