洞源院の歴史

洞源院の起源は、1061年(康平4年)前9年の没後、八幡太郎源義家公の開基により陣中の地である渡波山居に建立されたと伝えられています。この時今日に伝えられる持仏の守り本尊「聖観世音菩薩金剛立像」と一代尊「八幡大菩薩」とを安置し、恩讐を越え戦没者の鎮魂を願ったとされています。当初は真言宗の明庵法印の開山で、途中天台宗にも変わり、1570年(元亀元年)梅溪寺6世通庵宗仲大和尚によって曹洞宗に改宗されました。

当時、宗仲大和尚は大本山総持寺の輪番住職をつとめて後、当山を改宗しました。現住職は30世となります。この間、5世葉岩全祝大和尚までには七堂伽藍が整備され、禅道興隆の道場となりました。

6世聖山藝祝大和尚代の寛文年間に円光庵(佐須浜)と威光庵(小竹浜)、7世大通恵瑞大和尚代の宝栄4年には柳光庵(祝田)が建立されましたが、明治の廃仏毀釈で廃寺とされました。

また、伊達藩になると石巻と江戸を御穀船(千石船)が盛んに往来するようになり、乗船員の航海安全のため、「八大竜王神」を勧請奉安して祈祷の道場としても栄え、広壮優麗な七堂伽藍でありました。しかし、22世南浦玉英大和尚代の明治4年10月10日白昼火災のため、七堂伽藍がすべて焼尽してしまいました。

火災から100年が過ぎ、29世輝峰秀丸大和尚代の昭和45年より5ヶ年計画で、洞源院再建委員会を設立して風光明媚、山海秀麗な現在の渡波仁田山に遷座移転することとなり、昭和50年4月8日竣工した折りに山号を柳沢山より輝寶山に変え、霊園を併設して輝寶山霊園としました。
現在30世代の平成12年10月10日、室町様式の鐘楼門を竣工して現在に至ります。

廃仏毀釈…明治維新のあと、新政府が発令した太政官布告神仏分離令をはじめとする政策により、仏教施設が破壊されるなどしました。明治4年頃事態は沈静化しましたが、その影響は大きく、回復までには長い時間を要しました。
御穀船・千石船…石巻港はかつて、江戸への米輸送で発展を遂げました。その量は全体で必要とされるうちの約3割という重要なものでした。江戸へ行く際は米や他の穀物などを積み、帰りは布、陶器などを運搬し、大きく栄えたという記録が残っています。

洞源院開山までの禅師

洞源院は、大本山永平寺より下記の流れをくんで現在に至っています。

大本山永平寺(福井県)  高祖道元禅師
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大乗寺(金沢市)  徹通義介禅師
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大本山総持寺(横浜市鶴見区)  太祖瑩山禅師
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正法寺(水沢市)  無底良紹大和尚
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梅溪寺(石巻市牧山)  無尽天然大和尚
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洞源院庵宗仲大和尚

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