洞源院寺報なむ

第37号(令和3年1月1日発行)

人生に『修証義』を 最終章

住職 小野﨑秀通

行持報恩 ②

『父母恩重経』に「世の中に二人の得がたい人いる。一人は、恩を感じ、恩を知る人であり、もう一人は、恩を施す人である」と親の恩を説いています。

私たちは、親の元に生れ育って大人へと成長させていただいてきました。

しかし、人の道を諭す言葉が、時にはうるさい親の小言に聞こえて、反発し反抗する時期があった人も多いのではないでしょうか。その親も年老い、自分も親の歳になり親を想う時、幼年期、少年、青年期と、今までの課程を振り返ると、手塩にかけて育てられたことに親の想い、考えを仔細に思い起こし、感じることが大切であると同時に、感じた恩は、人のために施し与えることをしなければならないと教えてくれています。

また、仏教には「四恩に報ずべし」と説かれています。四恩とは、父母の恩、社会の恩、国土の恩、そして仏恩です。父母に育てられ、社会との関わりの中で多くの人や物に支えられて生かされ、国家安泰の中に幸せに暮らせることを仏の教えによって大事に感じ、感謝報恩の日暮しをすることが大切ですよと説くものです。

『修証義』が私たちに伝えたい究極のメッセージは、仏は遙か彼方に拝むものではないことが最後に説かれています。

『修証義』の最後の節に「徒(いたずら)に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」とありますが、ほとんどの方は一生懸命生きてきたと思われているでしょう。しかし、この「徒に」とは単にボーッと生きてきたという意味ではなく、仕事や金儲けのことしか考えなかったり、我が身を喜ばすためにグルメを食べ歩くことに夢中になったり等々、仏の教えを学ばないで生きることを、道元禅師は徒に生きると教えてくれているのです。この命が真実の道理に思い至らないで生きる過ちを諭してくれています。

「光陰は矢よりも速やかなり、身命は露よりも脆し」と心底思えたとき、この身をもって仏道に精進しようと改心することが大事だと説かれています。

仏道は人から人に伝えられて、仏の世界に導かれ、仏の御前に身を投げ出して、真の生き方を学ぶ信仰ですので、その中で正師に出会うことも大切です。

お釈迦様は人間として修行して仏となられました。仏とは「目覚めた人」「世の中の道理、真理が分かった人」のことです。仏道を行ずる者は誰でも仏になれる。それが「即身是仏」ということです。『修証義』の最後に「釈迦牟尼仏是れ即身是仏なり」とありますように、仏道を行ずる者は釈迦牟尼仏に導かれていますから、常に感謝の誠をもって「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と無心に掌を合わせお称えしましょう。

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大般若祈祷会のご案内

一月十八日(月)
・獅子舞 十時~十時半
・祈祷法要 十一時~十二時

開創九百六十年を迎えたご本尊観世音菩薩の初縁日に、守り本尊と八大竜王神をご開帳し、ご祈祷がなされます。

家内安全・病魔退散・闘病平癒・身体壮健・子孫長久・家業成就・
家門繁栄・除厄招福・商売繁盛・工事安全・交通安全・海上安全・
合格祈願・学業成就・良縁結成・無事息災・海産豊穣・家庭円満・
安産祈願・福寿長寿・心願成就

ご希望の願意を選び、白色の申込書に記入し、受付にご提出ください。
お檀家以外の方でも受付けていますので、ご遠慮なくお申込み頂き、お誘いの上お参り下さい。

※新型コロナウイルス禍のため、設斉(食事)のご接待が出来なくなりましたのでご了承ください。

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みちのく巡礼に参加して

高橋 範子

十月末に、実家の菩提寺であり、津波の犠牲になった母と義妹が眠る洞源院様のご厚意により、護持会主催のみちのく巡礼に同行させていただきました。

護持会の皆様は「おゆずり」という白い半纏を着ていましたが私は普段着のままです。

出発前、ご本堂の前に整列し、ご本尊様に道中の安全を祈願。

最初に伺ったのは、北上町の月浜地区の高台にある「長観寺」さんでした。お寺の下には七十戸ほどの集落があったそうですが全て津波に流され、一軒の民家もなく、檀家さん達も地元を離れ、お墓参りに来たときにお目にかかるだけになり、寂しくなったと話されていました。

次は「柳津虚空蔵」さん。大きな木立の中にたたずみ、その静けさに感動しました。これまで入ったことがない本堂で、般若心経をお唱えし、見上げると天井一面に見事な絵が描かれており魅せられました。

登米市の「弥勒寺」さんは小高い山の上にあり、広い境内には本堂の他に幾つもの立派なお堂があり驚きました。

昼食後、小牛田の「松景院」さん。住宅地の中ですが、ここも、お堂が幾つもあり、本堂には、大きな不動明王がそびえ立つように鎮座していました。お話では、この不動明王は田んぼの土と護摩木をお焚き上げした灰で作られていたそうですが、震災で壊れたため、先代ご住職が復興に尽力され再建しましたが、ご開帳の日に亡くなられたそうです。 更に進み、東松島市野蒜の「長音寺」さん。津波で全壊し、ご住職も犠牲になられたそうで、居住はできない地区に指定されましたが、お寺だけは檀家さん達の努力で再建できました。 最後は、東松島市鹿妻の「願成寺」さん。夕方遅くになり薄暗くなってきましたが、ご住職をはじめ皆さんに迎えられ、参拝することが出来ました。 初めての参加でしたが、ご本尊様の前でお唱えすることが叶い、震災の犠牲になられた多くの方々のご冥福と残された私たちの安全をお祈りすることができました。

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渡波の成り立ち

編集部 山田 信次

先般「なむ」編集委員会で、元渡波小学校々長の木村敏郎先生をお招きし、渡波の成り立ちについてお聴きしました。

先生は、渡波本町のご出身で、御歳八十六歳、石巻市の郷土史を永年研究されております。 今回は、渡波地区の歴史や風土・産業等を「いろはがるた」にまとめられ、子ども達にも読めるようにと全てにフリガナをふるなど、先生の優しさが伝わる郷土誌「渡波のむかし伊呂波歌留多」を資料に提供されました。

この本は、先生が平成九年に遊び心で作られたそうですが、データが震災時の津波で全て破損し失ってしまいました。幸いにも渡小に寄贈していた一冊が被害を免れており、それを基にNPO法人石巻アーカイブの協力で復刻された資料です。

さて、ふるさと渡波は、どの様にして誕生したのでしょうか。  遠い遠い古代を想像しながら読んで見て下さい。

《渡波の成り立ち》

今から二千年位前まで、根岸の前には、波が打ち寄せる海が広々と広がっていました。 万石浦は、根岸の辺りまで口を開いた大きな湾だった様です。牧山と鹿松山に挟まれた海は、万石浦湾の入口にできた遠浅で豊かな根岸湾でした。

牧山は、根岸から南西に斜めに突き出た半島になっていて、その南西端には鰐山(わにやま)という島(日和山)が浮かんでいました。

一方、牧山の北側にも浅い海が広がっていました。地質学上で「古稲井湾」と呼ばれている様に、稲井地区の真野まで海だったことは縄文時代の貝塚でも実証されています。

根岸の西奥に「根岸堤貝塚」がありますが、この貝塚は、縄文時代前期六千年位前の人々が生活した跡ということです。

やがて、海退(陸地の上昇などで海岸線が海側に後退し、陸地が広がること)が進み、今から二千年位前になると、根岸の原集落と鹿松集落を結ぶ線が、第一浜提(ひんてい)になり、伊原津や鹿妻、鹿松に砂浜の土地ができ始めていたことが、伊原津の洞窟から見つかった弥生時代の土器や人骨から証明されています。

さらに、千七百年位前になり鹿妻本町と千刈田を結ぶ線に第二浜提ができ、千三百年位前には、中道の辺りに第三浜提とされる海岸線ができ、そして、八百年位前の鎌倉時代に中道の南側が第四浜提となり、江戸時代の初め頃に、中道の内側に湿地帯が切り拓かれ新しい大耕地の千刈田ができたと想定されます。 その頃に牧山から流れる沢水を利用して灌がいするため根岸に堤が築かれ、歌川(音を奏でる様に流れる浅い小川)が用排水路として使われるようになり、江戸時代の初めには、現在の海岸線(第五浜提)もでき始め、根岸の東南に万石浦を塞ぐ大きな砂洲のような土地が広がり、ここに人家が集まり、渡波の町ができました。

そして天文年間(一五三二年~一五五四年)に根岸村西ヶ崎に落ちのびてきた佐々木肥後によって渡波の開拓が始められたのです。 佐々木肥後は、祝田に移り住み、祝田の対岸(現・渡波三丁目)の荒地を開拓して屋敷を構え、二代目肥後は、大庄屋を勤め足軽をつけていたそうです。

この渡波開拓の祖・佐々木肥後の子孫が、現在、洞源院護持会総代を勤められている佐々木力さんです。

この百ページからなる「渡波のむかし伊呂波歌留多」読めば 読むほど、渡波の歴史にのめりこんでしまいます。ここで紹介しきれない程の長い歴史です。

先生は、この本の中で、旧根岸村の地名や渡波の地名、そして、流留地区や鹿妻地区の地名を挙げ、そのいわれを解説されています。地名は、歴史の足跡であり古い地名には自然環境や成り立ちに因むものが多く、渡波の旧地名は、渡波の町場の広がる様子がわかる地名であると著されています。

近年、新町名と称されている町名からは、ふるさとの歴史が後世に伝わらないと嘆き憂いておられました。

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暮らしの中の仏教語 七福神

村崎 四季折々

お正月なので、今年も佳い福が舞い込むようにと七福神について書いてみます。

七福神とは、
大黒天(だいこくてん)
毘沙門天(びしゃもんてん)
恵比寿天(えびすてん)
寿老人(じゅろうじん)
福禄寿(ふくろくじゅ)
弁財天(べんざいてん)
布袋尊(ほていそん)
の七つの神様の総称ですが、仏教にも関わるインターナショナル的な豊かな「福の神」のグループだそうです。「七難即滅七福即生」にならい、七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かるといわれています。

日本籍の恵比寿天は、夷(えびす=異民族)という海より漂流してきた漁業の神様。大黒天はインドの神様マハーカーラ(大黒)が大国となり、大国主命になった瑞穂の神様。
毘沙門天は、インドの四天王の一人で護国授福の神。弁財天もインドの福智と芸術の女神。
福禄寿は、南極星の精で福・禄・寿を備える中国籍の神様。
寿老人も中国籍で、福禄寿と同じ星の化身。布袋尊は中国の僧侶で弥勒の化身として「円満の相」があり七福神に加えられたそうです。

先人たちは、外国より良いものを取り入れて、心も豊かにしてきたことがうかがわれます。
現在、国境を超えた経済活動や人的交流が図られるグローバルな時代ですが、一方で様々な分断と対立も多発しています。

私たちの暮らしも、国際的なつながりで成り立っているわけで、何事もグローバルな視点であらゆる人々に「福が舞い込む」ように見聞していきたいものです。

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活動報告(8月~12月)

  • 寺清掃奉仕 8月2日
  • 写経・写仏会 毎月第1日曜
  • 山門大施餓鬼会 8月8日
  • お盆供養 8月13日~15日
  • 保育園児合同お泊まり会 8月21日~22日
  • 永代供養・愛々動物供養 9月21日
  • 渡波の歴史勉強会 10月5日・11月9日
  • 寺子屋寄席 10月24日
  • 護持会研修旅行みちのく巡礼 10月28日
  • 保育園児合同やきいも会 11月25日
  • 洞源院梅花講学習会 12月2日
  • 保育園児成道会 12月8日
  • 寺清掃奉仕・成道会  12月13日
  • 護持会役員会 12月18日
  • なむ編集・発送作業12月24日
  • お焚上げ・除夜の鐘 12月31日

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行事予定(1月~4月)

  • 三朝祈祷 元日(金)~3日(日)
  • 大般若祈祷会 1月18日(月)10時~
  • お涅槃会・仏の教えを聞く会 2月13日(土)午後1時半
  • 東日本大震災合同慰霊供養 3月11日(木)午後2時~
  • 春彼岸供養
    3月17日(水)9時・11時・午後1時
    3月18日(木)9時・11時
    3月19日(金)9時・11時
    3月20日(土)9時・11時
  • 永代供養・愛々動物供養 3月20日(土)午後1時半
  • 花まつり・仏の教えを聞く会 4月17日(土)午後1時半

※行事予定の変更もありますのでお問い合わせください。

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お墓参り用線香あります

お墓や水子一葉地蔵尊などのお参りの折、本堂の正面(廊下)に、小さく束ねたお線香を準備いたしました。
皆様がお参りに来たときに、遠慮なくお使いください。

第二十八回 寺子屋寄席

前年に引き続き、桂文治師匠をお招きして開催されました。今回は、文治師匠のお弟子さん桂空治さん、桂鷹治さんもご出演され、賑やかに開くことができました。新型コロナウイルス感染の不安の中でしたが、感染防止対策を取りながら九十名程の方に楽しんで頂きました。

空治さんの「寿限無」その軽やかな噺で和み、文治師匠の「親子酒」で酒飲みのしぐさと噺を聞き、中入りを挟んで、鷹治さんの「平林」、大トリでは、文治師匠の「お血脈」を聞き、本場の落語を楽しんで頂きました。

落語終了後の恒例の「お楽しみ抽選会」は、用意した景品の他に、三人のサイン入り色紙を用意して頂き、大いに盛り上がりました。

今年はさらに楽しく面白い寺子屋寄席を準備致しますので、足をお運びください。

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編集後記

明けましておめでとうございます

中国の明時代に書かれた年間行事や儀式の解説書「月令広義」の中に「四計」という章があり、
①「一日の計は朝にあり」
②「一年の計は元旦にあり」
③「一生の計は少壮の時にあり」
④「一家の計は主人の生き方で決まる」
と記されています。

物事を推し進めて行くには、事前に周到な計画を立て、それに沿って実行していくことが肝要であり、何事も始めが大切で、怠れば折角の計画も水泡に帰してしまうという教えです。

新しい年を迎え、この一年をそれぞれの思いや希望を胸に抱き、一歩を踏み出した皆様方のご健康とご隆盛を心からお祈り申し上げます。

また、今年も編集員一同「なむ」の発行に尽力してまいる所存ですので、これまで以上にご支援とご協力をお願い申し上げます。

編集長 米谷行弘

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